ペリリュー島観光その3 太平洋戦争の激戦地を歩く 戦没者慰霊碑(みたま)

バスは途中島の学校のそばを通って南下していきます。やがてこれまで走って来た道から外れた場所で停車。ここには、戦没者の方々を慰霊するお墓が数多くあります。その中でもひときわ大きいのが、戦没者慰霊碑(みたま)↓
ひとつひとつに手を合わせながら墓碑を見ていきました。1944年9月から始まったアメリカ軍による攻撃は、当初のもくろみを超える3ヶ月にわたりる長期戦に。結局11月24日守備隊が発信した「サクラ、サクラ」の電文をもって遂に玉砕。戦死者は、日本人約1万人、アメリカ人約千六百人以上と言われています。

そんな時、ふと気になったのは、ペリリュー島にやってきて戦禍に倒れた人々の多くが沖縄県出身者であるということ。事前に読んできた本にも記述があったのですが、その背景として、沖縄県内で働き口が少なく経済的理由から新天地を求めて移り住んで来られた…当時パラオにあったサトウキビ畑やサトウキビ工場があったこと、政府や工場の経営者は沖縄の人々が気候・風土に順応できると考えて、奨励されていたのではないか…などなど。

これは今の沖縄を取り巻く環境にも影響しているのではないか…と、ふと思い、なんともやるせない気持ちになるのでした。

0コメント

  • 1000 / 1000